11月25日
良い歯医者さんを紹介してもらってメンテナンスに行くことができた。簡単には歯を抜かず自前の根っこを大事にしようとしてくれるので選んだ。お金儲けのこともあまり考えていないとのことで余計な治療をせず、新規のお客さんをとるつもりもない。信用ができる。
せっかくBellevilleまで行ったのだからと中華スーパーにも寄る。主に野菜を買うつもりだったのだけれど、この間食べてみて美味しかったお団子やあんまんを買い込んでしまった。帰りの坂が大変だからあまりたくさん買わないようにと思っていたのに!すごく重たかった。汗だく。
大根や里芋、白菜、青梗菜、もやし、しめじ、豆腐が手に入ったので明日は鍋だな。
『Ce que nous avons perdu dans le feu』5章まで読み終わり。
ちょっと苦労した。出てくる単語を自分の知っている意味だけで捉えようとして読み違えてしまう。腰を据えて読まないと分からない文章が出てくるので、多読するという目的にはちょっと難易度高めだったかも。
この章は特に私の知らない実際にあった事件、名前が出てくるのが理由であるかもしれない。
11月27日
昨夜はTさんのグループ展のため19区の区役所へ。
案内に従って建物の2階にあがると大勢がワイングラス片手に思いおもい話を弾ませている。人をかきわけ絵を見る。長いことお隣同士だったのにTさんの絵を見るのは初めて。Buttes-chaumont公園越しの鮮やかな夕陽は私にも馴染みのあるものだったのでしばらく絵を前にしていろんなことを考えていた。
Tさんは体調の都合でいまは油絵は描かずにデッサンだけしているそう。体が言うことをきかず体や頭の中のもののことを形にできないのは歯がゆいだろうな。
Tさん含め元ご近所のみんなでフォーを食べに行く。Tさんは嬉しそうだった。そんなTさんを見ることができて私も嬉しい。
友人とのミーティングでルーブルの近くのカフェに。
たくさんのお客さんがいたけれど会話が聞こえないということがなくて、良いつくりだった。シックだし、ショコラは美味しいし、この場所を覚えておこうと思う。
行き帰りのリボリ通り、自転車のマナーが悪くてたまにドキッとする。信号をあまりにも忠実に守りすぎるのは車の邪魔だけれど、歩行者を危険な目に遭わせるのはもってのほか。とはいえ歩行者も信号無視、携帯を見ながらの不注意は日常茶飯事なので、自転車や車の運転者はいつでも細心の注意を払わないと危ない。運転が下手だったり、確認が面倒でえいっという感じで勢いに任せてやみくもなまま進んでいるような人も時々いて、ひやりとする。
私も実は反射神経がものすごく良いとは言えないほうだ。だから注意深くあろうとする。
11月29日
朝晩の気温が下がってきたので植物を室内に入れた。20くらいの鉢が急に部屋の中に増えることになる。冬になると生じる悩み。
日当たりが良い場所にはすでに他の植物が置かれているし、日陰に鉢を置いておけば土が乾きづらいのでカビの心配も出てくる。人間の健康にも悪いし、植物も根が乾かなければだめになりやすい。
植物は水の状態さえ良ければうまくいく。水が足らないことよりも水をあげすぎることのほうが枯らす原因になる。私はたいてい冬の間に植物をだめにしてしまう。冬にも植物を成長させようなどという欲は出さないのがいいということに、育てはじめて4年くらい経ってやっと気づいた。
冬は現状維持。極力水をあげず、半冬眠状態にさせて乗り切らせる。
行きたい展示。
ロジェ・カイヨワのコレクションが見られる。3月まで、入場無料。
Magdalena Abakanowiczの個展もある。4月まで。
11月30日
手作業と平行しているというのもあるけれど、耳で聞ける本は限られている。以前読んだことのあるものや比較的ストーリーがはっきりしたもの、エッセイなど。付箋を貼りたくなるような読書はできない。手をいちいち止められないから。でもあまりおもしろいものを選ぶと本気の読書の時間を侵食してしまう。かといっておもしろくないものは読みたくないし。塩梅がむつかしい。
12月1日
多くの方に不義理をしたことについてどうしてきちんと筋を通さなかったのかと思うたび、今からでも遅くはないからなにか伝えるべきなのではと考える。でもそれをしようとするとどうしたってあることを明らかにしたり、それは誰かを糾弾することに繋がるからできない、あの時もできなかった、と思い直す。こうして思い悩んだり嫌な記憶を手繰り寄せて時間を費やしても、最終的には何もできない、するつもりもないという結論に達するのは自明なのだからもう考えるまいと思うのだけれど、それでも時々ふと思い返してしまう。
他の何かを理由にせず自分だけの責任でとにかく話をしたら良かったかもしれないとも思うけれど、それは実際あったこととはかなりものごとを歪めることになる。筋を通したくてあらゆる方法で抗った自分を裏切ることができない。そこまで自分を犠牲にすることは間違っていると思ったし、今でもたぶんそう考えている。
一番のあやまちは自分の信念を譲ったことにあったんだから。
この10年で自分が変わったとしたら、本当の責任感とは何なのかということを問い続けたことによるかもしれない。責任を持つということの本当の意味、自立するってどういうことか。自分を知らずに引き受けすぎるのも無責任だし、相手に責任を取らせずに自分が引き受けてあげるのも違う。本当の信頼はどう生まれるのかというようなこと。表面的なことじゃなくて、どんな状況になっても揺らがないつもりでそこに立つと宣言すること。
まだ全然できてない。
12月2日
昨日は舞踏の舞台を見に。
今日はひとり、人間じゃなくて、自然現象がこちらに近づいてくるみたいな踊りをする踊り手がいて見入ってしまった。かなり思い切った強い音を使っているのにそれに体が負けていなかった。特に後半の、法螺貝の音が響き渡るなか全照して体も舞台もあらわになったのに、引き続きこちらを別世界に繋ぎ止めてくれていたことにわくわくした。私は踊りでこういう瞬間を見たいのだった。
終演後ご本人にそのことを伝えたらやはりあの音の中でどう存在できるかということをずっと研究していると話してくれた。
憑依型の演者には、憑依させたものに振り回されて自分だけが浮足立ってしまう人も多く見かける。でも彼女はそういう生やさしいはずれかたではない。一瞬でもあの存在感を見られたのはよかった。
演目を見ながら、舞踏とこの頃読んでいる実話怪談は何かが似ているなと思ったのだった。
白塗りしていて着るものもぼろぼろだからお化けっぽいとかそういうことではなく、日常のシーンのように見えた次の瞬間に現実の生皮が剥がれるようにして別のものが肉体を借りて現れる瞬間があって、それが人間の方の記憶なのか空間の記憶の名残りなのかふと混乱するようなところ、かな。
踊り手が何かをしているからということよりも、見ているこちらがわがじっと何かを見つめていることでそれは起きる。もちろん演者の巧さとか仕掛けも関係していると思うけれど(それがなければ舞台上で起きる何ごとかを見つめ続けることができないという意味でも)、実は案外シンプルで、ただ受け取り手にその時間を与える、持つというだけで醸成される感覚がある。
自分だってそういうことを舞台上でしているはずなのだけれど、そういう感覚を濃く感じさせる舞台はそう頻繁にはないので、ぐるぐると色々考えながら見た。
私自身あまり舞踏の舞台を多くは見てきていないから気づかなかったけれど、もしかして舞踏の踊り手のほうがこの、観客にしっかり時間を与える、解釈を預けるということをしようと意識的に努めているのかもしれないと思う。
コンテンポラリーダンスの舞台ではこういう、見たと思っていたものそのものを崩される、時間を歪められるような経験はなかなかできない。舞踏のひとたちの「いかに動かないか」みたいなものへの意識とコンテンポラリーのひとたちの「いかに動くか」の意識との対比なのかもしれない。…舞踏を知らなすぎてわからない。
しかしやはり舞踏を見ていつも思うのは、動かない動きは見事であっても、速く多い動きとなると途端に素人臭くなる踊り手が多いこと(昨日見た方々がそうだったという訳ではなく、私の狭い舞踏観劇経験の中だけでの感想です)。動かないこと、動くことのどちらもその人としての芯が通ったままでいられるためには訓練がいるけど、たぶん速い動きを暴れることにすり替えてしまっていて細かい意識の訓練が足りていないんだと思う。速い動きになるととたんに情動的になってしまうのかもしれない。いかに動かないか、の視線で動くことをも磨いていかないといけないんだと思う。
踊りにその人の素というか、人間らしさが出ることが私は好きだけれど、煮詰めたことがないであろう動きには熟達を感じないし、それが経験の浅さからくるものなのか怠惰からくるものなのか、はたまた他の場所を深めるためにいったんお留守になっているにすぎないのかはすぐに見てとれる。
その作品や踊り方が好みであろうとなかろうと、いわゆるテクニックが高くても低くても、体のはしばしがそのひとを語っていれば見つめていられる。これは運動神経とか体が利くとかキャリアとかはあまり関係がなくて、その人の生き方とか踊り(表現)への意識、人間としての性質のほうに深く結びついている。
体の動かし方は外界との接し方が出るものだけど、踊り手はそこを研いでは削いでいるから、より見えやすくて、ある意味、怖い。
踊りのうまさと共にそのひとの芸に対しての姿勢を見るから、評価は踊り手によって相対的になる。良い踊り手だと思うほどに視線は厳しくなるし、でもそういう細かいことはどうでも良いとなるくらいに与えてくれる踊り手もいたりする。
昨日は何となくずっと気にかかっていた方にお会いできた。
10年前(もう10年!)にパフォーマンスに誘ってくれて、その後にメールの送信のやりとりもうまくいかず連絡が途絶えていた。同じ町にいるし同業者だからそのうち会えるだろう…なんて思っていたらこんなに月日が経ってしまった。彼女の方でも私は日本に帰ってしまったと考えていたようで、再会を喜んでくれた。よかった。
しかしどうして何としても連絡を取ろうとしなかったのだろうか。ギャラを受け取る必要もあったし、誘ってもらったお礼はしたはずだけれど、縁を嬉しくも思っていたのに…10年前のこの国にきたばかりの私はやはりちょっとふわふわと現実から離れていたのかもしれない。
不義理をしていたことがずっと胸の奥に引っかかっていたから、よかったな。
12月3日
珍しく窓の近くに小鳥が寄ってきたので息をひそめて眺めていた。窓が閉まっていて外からはガラスの内側は見えないのかもしれないけれど、少しの気配で逃げていってしまったら残念だから。なにか食べるものがあるんだろうか。枯れ果てたような枝をつついていた。気づくと10羽くらい同じ鳥が枝にいる。日本でいうムクドリみたいな群れで移動している鳥だと思う。そういえばこのところよく見かける。
12月5日
同時に複数のものと関係を結ぶことが苦手だが、だからといってひとつのものごとだけに集中しようとすると、待ちの姿勢で現状維持するしかなくなる瞬間がある。自分がすでにボールを投げたことを理由にそれ以上の行動をしなくて良いという免罪符を自分に与えてしまうのだった。そうすると当然回転数は下がる。ゆっくりゆっくり、何も発展していないわけではもちろんないけれど、自分にはまだ余力があるということだけは知っている。だからいつも、もっと何かをすべきだという焦りがうっすらと背後にあって、完全に自分を遊ばせることができない。
慌てる必要がないのにどういうわけか自分のペースを保てない時に思考が浅くなる。
12月6日
友人から送られてきた生花の動画を見る。
花よりもむしろ大きめの木の枝や葉、苔がついていたり枯れたりしているようなものをメインとして使っていたため、私も外で面白い枝を見つけたら持ち帰ってこんなふうにかたちにしてみたいなと思う。落ち着いた色使いや大胆なフォームもかっこよかった。
最後のほうの冬枯れに似た作品を見ながら、これがそのへんにある実際の冬景色にはならず生け花の作品して成り立つためにどういう思考錯誤があったんだろうということを考えた。ダンスもそうだ。人が動くという当たり前でありふれたことからいかに脱却するか。
日記まとめ、まだ年を越せそうにありません。
長い事日記…というかメモ書きを残しているのに読み返すということがなかった。この日記まとめでははじめてその醍醐味を感じてもいるので、ゆっくりとやっていくつもりです。
引き続きお楽しみに!


