1月15日
Bibliothèque nationale de Franceのリシュリュー館に。改築したら行ってみようと思っていたのを忘れていたが友人が誘ってくれたので。
重厚な雰囲気がそのまま残っていてほっとした。
『イスラーム精肉店』読了。
「俺たちが他人を鏡にする理由は、自分の中にある矛盾に気づく力がないからだ。他人の矛盾した行動を見て、自分はどうだろうと省みるしかない。そうでなければみんな、自らを未知の領域に置き去りにしたまま生きていくことになるだろう。」(p173)
近くにいるのに触れ合わなかったり、まったく違う方向を向いているのにかたく結びついていたり、文句を言いながらもそこを家だと思っていたり、受け入れられないひとなのに一心に何かを食べている姿を見ていると憎めなくて涙が出てきたり、そんなことを考えていた。
ちょうど友人といろんな話をしたあとだったので、その友人の心の状況と寄せながら読んだりもした。
いい作品だった。ソン・ホンギュの他の本も読んでみたいな。
私が友人に伝えたのは自分を納得させたかった言葉だったのかもしれない。性質は違えどそれぞれが持った使命のようなものについて語るなら似た境遇だと言えるのかもしれないと思った。でも私は自分の見えていないもののことが分からない。
もちろん、満足させるためだけに言ったわけではない、それだけは確か。
解決策がないような気がするときも、解決策がやってきたような気がするときも、どちらもそれを気に留めておくだけ、体重をかけすぎないでいるのがいいのかもしれない。どちらにも振り切らないままの状態で、次に来ることに向かう。
1月16日
何が自分の胸のなかにたまっていたのかは分かっているけれど、どうしてそれが溢れ出したのかはわからない。思い当たることはあるが(友人との会話とか、最近ドラマで見たローズ島の話とか)。こんがらがっていても口に出すわけにはいかない、何故ならこれは自分の問題だし甘えだから、子供じみたしょうもないことだから。
分かっているのに隠しておくにはやりきれなすぎたんだろう。
結論はいつも同じ、自分の中に問題も解決もある。でもそれはあくまでも結論として存在するだけ。
外から争っているような声が聞こえることに気づく。夜中の4時なのに。がんがんと何かを叩きつける音と、女性の悲鳴と嗚咽。誰かが暴力を受けているのじゃないかと心配になって外を見たら、道の向こうの窓に時々のたうつようにあらわれては泣き叫ぶ女性がいて、見えないところでは壁に激しく体を打ち付ているようだ。どうやら誰かが一緒にいる感じではないが、あまりに激しいので、こんな時間にとしばらく悩みはしたが、やはり放っておけなくて窓の下まで出かけて行ってどうしたの、大丈夫?と声をかけてみた。相手はびっくりしたみたいで泣き止んで窓を閉めてしまった。
静かにさせたかったわけではなかったんだ。世界中でひとりぼっちじゃないと知ってほしかっただけ。眠れるといいんだけど。
様子が尋常ではなかったので薬かなにかの作用かもしれない。
1月20日
毎年必須の作業を終了。
コロナ後、書類はインターネットでの提出となったが、もうずっと送付欄が必要書類の項数に足りないという問題は訂正されていない。再提出を求める方も大変だろうにどうしてすぐに問題に対応しないのか。
そういえばどうして対応しないんだろう?とももう思わなくなった。同じ問題を何十年も訂正しない国なのだ。
DISTANCE.mediaのこちらの記事を読んだ。
SNS依存とスロー・ルッキング
完全にSNSをやめたというドミニク・チェン氏の話と、SNSなしでは動かないと思わされている世界についての対談。
すぐに判断しないと何か良くないことが起こるんじゃないかと感じるのは動物としての本能なのかな。実際にはそういった反射で動いてしまえば良いことはあまりないのに、何故か手放せない。その何故か手放せない、ということも含めて、ゆっくり噛んでみるのがいいんだろうな。長い時間でものを見ることを心がけられるようになったのはやはり年齢を重ねたからということも大きくて、子供時代の限りなく長かった一日と引き換えに得たものなのかもしれない。
1月20日
私にとってストレッチは、お風呂で肌をこするような感じに似ているかも。垢がたまっていそうだとちょっと気持ちが悪いからすみずみまで動かしてあげたいかんじ。全身の皮膚というか毛穴を動かして風通しを良くする感覚。外の皮膚を動かそうとすると皮膚の内側ももっと伸びたいし、そうすると骨が動いて関節も動いてその中の内臓も動く。肺も外の動きに触発されるから内側からの動き、つまり呼吸もたくさんしようとなる。
足の指先から耳の中までストレッチをするけれどそれは、柔軟体操をしようとしているというより「ここまだ洗ってないな」という感覚に近い。
踊りも半分くらいはその延長かもしれない。踊りのときには、開かれているのは表面だけではないし伸び縮みだけではないけれど。裏返ったりもするし、色合いも変わる。
カズオ・イシグロ『充たされざる者』を読み始めた。
情報なく読み始めて『日の名残り』みたいな上品なイギリス紳士の話だろうかと思ったらなんだか変だ。だいたいはまともな描写なんだけどつなぎ目だけが白昼夢みたいに説明がつかない。人物や設定の前提がくるりとひっくり返ってしまうのに、表面的には普通に物語が進んでいる。なんだか面白そう。
1月25日
書くことも読むことも1日の間には容量がありそうだ。
たとえ時間があっても、もう十分書いた日には書かなくてよいふうになる。書いたものの質はもしかしたらあまり問題ではないのかもしれない。Twitterをだらだら書いたり読んだりすることで大事なことに手を付けられなくなることもこのためだ。
1月27日
audibleや読み上げ機能の良いところはもちろん手が空いたり移動できることなんだけど、もうひとつ、その体への制限のなさのおかげで物語と自分が触れた外界の印象が結びついて、時には物語とはまったく関係がないものにまで浸透し、膨らんだり枝分かれした体験になること。
ときどき内容を把握せずに音だけが進んでいることに気づいて遡ってもういちど聞くことがあるけれど、前回これを読んだ時にはここにいたな、こういうことをしていたな、目の前にはあれがあって寒かったとかこういう匂いがしていたとか私はどこを見ていたとかいうことがすぐに思い出される。
読書にとっては雑音とも言えることなのかもしれないけど、そういうことまるごとが読んだ体験に含まれるのもまたいいなと思う。
2月4日
すごく忙しかったとか書くことがなかったという訳でもないのに何も書かないのは、生活の多くの時間、心をとある重大事に占められているからで、そういう重大なことは誰にも知らせられず、どこにも記録されない。
1月が終わったことには気づいていたけれど、2月が4日も過ぎていたことには気づいていなかったかもしれない。
『街とその不確かな壁』読了。
あとがきを読みながら『世界の終わりと…』の続きを待ち続け、村上春樹の新作が出るたびにあの物語との関連を考え続けていた自分の時間もこれで終わったなということを考えた。
2月6日
地下鉄では本に没頭できない。安心して乗っていないからだ。
2月8日
客用の寝室を綺麗にして、洗濯しておいたカバーをかけ、床を水拭きする。
人参とじゃがいもと里芋を蒸し器にかけ、あるだけの卵を茹で、水に漬けておいた鱈をほぐし、ベシャメルソースを作ってサラダとグラタンの用意をする。黒米ともち米と米を混ぜ洗って、水に浸しておく。
合間にいつもより少しだけ丁寧に掃除。
これだけのことで多くの時間がいつの間にか流れていく。
『街とその不確かな壁』についてのちょっとした感想。
特に何も起きずに物語が終わるんだろうな、ともうじき読み終わる頃に思った。
でもそれこそが村上春樹がこの物語との決着として選んだかたちなのかもしれない。そういう風に思ったのは作中のガルシア・マルケスの作品を読んだ図書館の女性の、彼の作品の中には死んだ世界のものが日常と境なく登場するけれどきっと作者には実際にそれが本当に見えていて、見えているものを書いているに過ぎないんだと思う、というようなセリフを聞いた後だった。
村上春樹はいつも同じことを言っている。ストーリーや登場人物の名前は変わるけれどいつもその土台にある骨組みは一緒で、帰るところは同じ場所だ。
『世界の終わりと…』で語ったことから何ひとつ違うことを言っていない。最初は「どうして今になって敢えてこれを書いたんだろう」と思いながら読んでいたけれど、終わり近くになって、何十年も書いてきて、何十年も読まれてきて、それでもなお作家は今これを書かないわけにはいかなかったんだろうということを思った。
こういう姿は、「年齢を重ねてきた作家」に対して私が(勝手ながら)抱きたい感想からはちょっと遠いような気もする、などということも考えた。
彼の作品はどれも読んでみればやはり面白いんだけど、どうしても「若い頃に読んだ村上春樹」というか「あれを読んだあの時代のあのわたし」みたいな感覚から逃れることができなくて、それは何も私が村上春樹を読んだ時期がちょうど思春期くらいだったからという理由だけではなくて、いつまで経っても村上春樹は思春期みたいな人のことしか書かないなという感想と無関係ではないんじゃないかと思う。
人物は人生のわりあいと早い時期にある出来事によって心を縫い留められてしまっている。そこから遠くに歩んでいるように見えても、影だけはそこにしっかりととどまって、離れようがない。誰かに出会ったり、どこかに旅をしたり、時にはこの世を離れたりしながらも、亡霊を描き切ることもできず、新たな命題を見つけることもできず、年月を重ねた手応えもないままいつのまにか月日が過ぎてしまった、亡霊はいつまで経ってもただそこに佇み続け、立ち去らない、かといってはっきりと見えてくることもない、曖昧に躱され続けたままいつまでもこちらを見ている。
物事が起きなくても内的世界では遠くまで行ける文章というものも勿論存在するのだけど、この作品に関してはもうほんとうに何も起きなかった。村上春樹という図書館の本を集めてそこに使われている単語やフレーズを抜き出して、丁寧に貼り合わせて、暖炉の前でじっくりと読んでもらったような感じだ。
別にそれがだめだったというわけではない。
ただ、ああ、物語は終わったのだなと、そういう風に思う。
これが作家の意図したものなのかもしれない。長年物語を読み、編んできたひとなのだからそのくらいの仕込みはしているだろう。
もうこの図書館に来ることもないかもしれないという、ほっとしたような、物悲しいような、変な気持ちだ。
2月9日
遠くに見えていた紺色の硬そうな雲が一時間くらい経ってもやはり相変わらず遠くに見えていて、この土地はずいぶんと平らなんだなと思う。凪のようなゆるやかなのぼりくだりを繰り返しながら時々うつらうつらした。後部座席に乗っていると前のふたりの話はつかまえられない。
いつもの休憩所にはこの地方のマスタードが並んでいる。バジル味、エストラゴンの味、赤ワインビネガーが入ったもの…七色どころではない。ヌガーやビスケット、チョコレートの缶が可愛いけれどもちろん買わない。本のコーナーには子どもが退屈しないようにと色んなお勉強カードが置いてある。表には歴代の王様が、裏には歴代の大統領の顔が描かれているカードを見ながら、どちらも数えるほどしか知らないと思う。
2月10日
火を熾す行為はまだ私にとっては新鮮で発見が多い。単純に手慣れていないからで、自分が打った手に対しての反応を観察しながら小さな試行錯誤を繰り返す、微動の時間だからだろうと思う。慣れてゆけばその粒度は細かくなってやがて意識しないまでに噛み砕かれてゆく。それを安定と呼ぶのかもしれない。
皿洗いとか歯を磨くこととか、パンを捏ねることとか絵を書くこととか言葉を探すこととか、歩くこととか人と話すこととか、すべての行為においてほんとうはそういうことがおこっていたのだろうけれど、そういうことはもうすべて体の奥深くに沈んでいる。極めたいことに対しては、その慣れがやってきてもさらに細かく濃く観察を続け、沸き立つような心の動きがある、ようであるのが望ましい。その炎を絶えず消さずにいるためには、消さずにいようなんていう意識さえはたらかない場所にいるしかない。かもしれない。
この頃はたくさん耳で読んで、頭の中が音声の文字でいっぱいになってちょっと疲れた時期だったのを思い出しました。
まだ寒くて、少し迷って、いや、迷う足も止めていたのかも。
春になったから動き出すぞと思っています。
次回の日記もお楽しみに!


