12月7日
昨夜はお向かいさんから遅くまで楽しげな音楽や声が聞こえてきていたのだけれど、にわかに爆発音が聞こえて庭が昼のように明るくなったので何ごとかと見てみれば、花火が打ち上がっていた。どうやらうちの庭に向けて花火を発射している。いくら盛り上がったからといって部屋の窓からあんな盛大な花火を打ち上げるなんてはしゃぎすぎだ。空に向けてならいいんだけど。庭の木が燃えてしまう。
12月9日
割れた奥歯を治しにふたたび歯医者さんへ。
パリの多くの歯医者さんはお金を取ることばかり考えて悪い歯はすぐに抜いて高いインプラントを勧めるのだと脅されていたため、歯が割れたときには怖くて歯医者に行けなかったのだが、信頼できる先生を紹介してもらったのでやっと治すことができてほっとしている。
その先生は不必要な抜歯はできるだけせず、薬も最低限しか出さない方針らしい。治療費の全てを私の保険でカバーすることはできないけれど、こことここは治療というよりも健康維持という分野なので書類を書いてあげる。保険会社にお金を返してもらいなさい。というアドバイスまでしてくれた。
一度インプラントにしてしまったら後戻りはできない。でも歯の根っこを残しておいて適切な治療をすれば歯茎をいい状態に保つことができるかもしれない。様子を見た後に必要ならインプラントにすればいい。根っこを保存する治療は面倒だしインプラントみたいに儲からないけれど、私は患者さんの健康のために働いているのだから。と先生は言う。
歯茎の切除までしたのに麻酔の切れた今、たいして痛くもない。
良い先生を紹介してもらえてよかった。
先日友人と話していて、あなたの活動が今のトレンドにはそぐわないとか、トレンドに乗るような方法で広めるのは気が進まない考えるのは想像できるけれど、でもそもそも人に知ってもらわなければその活動をする意味もないんだから、うまいことやらないければいけないよ、という意見をもらった。
至極もっともだと思うし反論もない。そして自分でもそうすべきなんだろうなと頭では分かっている。突破口はもうそこにしかないかもしれない。
けれどやっぱり、その風潮に世界が乗ったことで消されつつあることこそが、私が大事に感じていることだから、その感覚にだけはどうしても背くことができない。
自分はただ待って、誰かに見つけてもらおうなんて傲慢だ。もちろんそこには理由があるけれど、社会的には確かにそうである。自分が大事にしていることをどうしても裏切れないということそのことが頑固な、傲慢な態度である、とある意味では言えるだろう。
けれどそれは自分を裏切るだけじゃなくて、私が「世界はこうだったらいいな」と思うその世界を裏切ることになるので、そんなことをするなら生きる意味もないのと同じなのだった。
自分が極端なことは分かっている。永遠に付き合うか、いますぐ焼き尽くすかどちらしか選べない性分なことも。
12月10日
もうすぐこの一年も終わる。
この4、5年はあっという間に、無為に過ぎていってしまったような気がすることもあるけれど、日記や写真を見返してみるとずいぶん前に感じていたことが実は1年前のことだったりするので、それなりに動いた/動こうとはしているのかもしれない。
表面だけのことで判断しているつもりはないんだけど、どうもスピードが遅くて…迷っている時間も長過ぎる。
12月12日
友人とオンラインで話す。日本語を教え、私もフランス語の上達を手伝ってもらっているというかたち。
日本語への情熱をたくさん持っている彼は、その語学レベルではとても伝えきれないであろう複雑なことも話してくれようとする。えーと、えーと、と言いながら間違えたりつっかえたりしながら話すのに私もえーと、えーと、と言いながら理解しようとする。「もし私が日本語を話す時に」を言いたいのに「から、わたし、時間、話します、日本語」という風になるのでパズルみたい。
会話をスムーズにするために少し文法を勉強するといいなと提案するも、こういう風でもいいからどうしても話したいことを伝えようとすることこそすごく大事だと思う。私も見習わなくてはならない。
12月14日
いつかこの大事なことを頭の中でまとめようとか、文章なり何なりで残しておかなければとか考えるのだけれど、きっとそれに着手したら莫大な時間がかかることは分かっているのでいつまでも「そのあたりのこと」がもやっと漂っていはするものの、定着することがない。ある程度かたちにしておかないとすぐに見失うのでこういうことは後回しにしてはいけないのだと分かっているけれど、膨大な仕事量になるのが分かっているので逃避している。それに、いくら時間をかけたところで自分にそれを残しておくだけの価値のあるものにできるのか。
以前私は少しは文章が書けると思い込んでいた。でも今は全然そう思わない。上手な文章だとはもともと思っていなかった。下手な文章なりに、読み終えた時になにか感覚的な余韻を与えるようなものであるんじゃないかと考えていたけれど、それも幻想だったと思う。
それでも文章を書くことは好きみたいだし、書くことは読むことと同じで、誰に共有せずともしていいもののひとつだと思う。書くことは残すことで、残すということはその相手が想定されることであるといえるけれど、必ずしも何かを伝えるということのためだけに存在しなくてもいい。残ったものを自分が活用しなくても構わない。書いている時の、どこかに降りて行き、曖昧模糊と広がったものの中を泳いで、ひっかかったもじゃもじゃとしたなにものかを手繰り寄せる、それをしているその瞬間の感覚だけが自分にとって重要なのかもしれない。それだけのために書いていいと思う。
今日は「身体性」についての話をした。
身体性、最近よく使われる言葉だけれど、そして私もそれをなんとなく自分なりの解釈で使っていたけれど、実は正しくはというか、多くの場合にどういう意味合いで使われているのか分かっていないかもしれない。
私は踊ることに関してはなにかしら自分なりの方法を探ってみた時間が長くて、その経験を持った体で世界の中にいるので、普通の生活においてもその「身体性」のようなものが応用されているというか、生きているもんだと漠然と考えてきたけれど、でも実際は私は色んなことに対して不器用だし、応用力もないし、観察眼も足りていない。踊りのこと以外はまったくのポンコツで、でももし私が経験によって「身体性」のようなものを確固としたものとしてきたならば、そういうことってありうるんだろうかと思う。ある分野にだけすごく感覚が長けていて、でもそれを他の分野のこと(例えば生活のこと)には応用できないとしたら、それは全然私が「身体性」を持っていないということになるんじゃないだろうか。
そういう話をした。
でもSいわく、でも踊りのときにはものすごくそれができているわけで、きっと自分がそれを振り向けたものにしか身体性を開かないと決めているんじゃないかと言われて、ちょっと腑に落ちた。いつもはシャットアウトしている。踊るときにしかそこを開かない。なぜなら、あまりにも不器用すぎて(または頑固すぎて)0か100しかないから。
100をできる場所が舞台上だけなんだね。もし20とか30とかのボタンを作ってくれたらお互い楽なのにねえ。
どうして縄文時代に生まれてこなかったんだろう。
12月16日
歯がすっかり治って嬉しい。
日本の歯医者さんでは一回の治療時間が10分くらいで週に1度も予約がとれず歯医者通いが何ヶ月も続く…ということになって、先の予定の見えない私には時間を確保することが難しかった。
それが今の先生だと一箇所の治療に1時間半くらいかけて終了してしまう。神経に関わる治療もあったし、前歯がいつのまにかすり減っていた分まできれいに修正してくれたりしたにもかかわらず。痛みもなし、終わったらすぐご飯も食べられる、もうあちらの方角に足を向けて寝られない。
友人の家に招かれる。
この間までレゴブロックで飛べなそうな飛行機を作っていた子が等身大のロケット発射台と宇宙ステーションを作っていた。まだ11才なのに私より背が大きくなっていたし、好きなものが変わっていないことも嬉しい。
夕飯を食べてしばらくすると「チーズパイ食べる?」と言ってくる。私が焼いてきたチーズケーキを食べたいよということかな?と思ったら、なんでも前日から「カオリにチーズパンを食べさせたい」とずっと言っていたようだ。うん、食べたい、と言うと、食パンにチーズを載せてトースターで焼いたものを出してくれた。友人は「ご飯を食べたあとなのに普通に食パンなんて食べさせてごめんね」と笑っていたけれど、私はほんとうに嬉しくて、美味しかった。
12月18日
今日本を読んでいて、目の見えない人がなぜ仮面の目のところに穴が空いているのかと尋ねたことに主人公がぞっとするシーンがあって、私もぞっとした。
12月19日
ゆっくり話していると、1/10くらい話したところでぱっと別の話にそれを回収されて引き取られてしまう。
私が言いたかったことは全然そういうことではなかった。キーワードが同じなだけで、全く違う。
でも目の前でそのズレた話はどんどん広がってゆく。
私は諦める。
自分の思う通りに話したかったら速く、正確に話せるようになるしかない。
日本語でもむつかしいそのことを、フランス語でできるようになることがあるんだろうか。
けれどこういう現象を多く見たり味わったりしながら、世の中の会話というものへ自分がいかに幻想をいだいていたかにも気づきはじめているかもしれない。
私は、会話を始めた人が何を話したくてどこに結末を持っていきたいのか、そればかりに気を配って会話を促そうとしてしまう。先回りして予想して、行先が違そうなら微調整をしながら伴走してゆく感じ。
しかしそれだと予想通りの会話にはなるけれど、意外な場所にはたどり着けない。
おおかたの他人とはそういうことをやらないでもいい、という怠惰や諦めもあったのかもしれない。
フランスにいると、自分の目線が比較的強い人が多いので、会話がまるで噛み合っていなくてもそれぞれの主観の中でお互いの話を自分なりに受け取って、成り立ってしまっているということが起こる。
私は外からそれを眺めて静かに驚嘆する。本人たちは会話が成り立ったという感触のかなかで満足を感じている。こうして世界が閉じるならば、これで良いんだろう。
ーーー
なにやら伝えたり受け取ったりする、というようなことのなかで自問自答した期間みたいでした。
こうしてある程度の期間の日記をまとめてみるのは面白いな。ある期間を見通すことでいつのまにか自己診断をすることになるし、さらに2ヶ月経った今からの視点も追加することができる。
長く日記を書いてきたけれど、一度も日記を見返したことがなかった。どうしてだかはわからないけれど、理由があったことなんだと思う。そして今こうしてはからずも見返す機会を作ったことにも、きっと理由があるんだと思う。その理由はきっと自分だけのものなんだと思うけど。
踊ること以外は、私はわたしのことだけしかできないのかもしれない。


