3月2日
Sが帰ってきてほっとする。自分はいつどんなことがあっても仕方がないなと諦められるけれど他人のことはそうではない。無事に帰ってきてほしいと祈るとともに、こんなことを祈るのは縁起が悪いような気もして、嫌なことが起こるかもしれないというイメージを鎮めてぼやけさせるように試みる。
3月3日
人と人との間を行き来することから身を離していたら、人と人との間だけに存在する私のことを忘れてしまった。自分ってそういう感じだなと思っている自分だけと一緒に生きていくのは時々窮屈だ。自分のなかの強い性質が石灰化するみたいにカチコチに凝り固まって、身動きできる範囲が減ってくる。そういう時期を経て自分はそういうたちなんだなと気づくことも悪いことではないけれど、いい加減そればかり目の当たりにしていると倦んでくる。
3月4日
何かを言葉にするのがどんどん難しくなる。自分が足らない言葉で何かを言わずともいくらでも専門性の高い言葉にアクセスできる。けれどここは日記なので、日記くらいは自由に書いてもいいかもしれない。大きな出来事があった時にはなおさら。
戦争が始まった、というふうには言いたくない。ひどいことは今に始まったことではない。どこかで誰かがいわれもなく殺され続けている。私が知っている限りでもそうだし、私が知らないことなんてその何百倍もある。それにこの出来事を戦争と呼びたくもない。戦争と呼ぶにはあまりに不均衡だと思うから。
仏大統領は来たるべき未来のために核兵器を増やそうと思うなどと言うし、日本はあいかわらず米国の腰巾着だし、誰にも矜持がない。人類は歴史からひとつも学ばない。悪いことは隠されて行われるのだと思っていたけれど、世界中の人が注視しているその前で堂々と行われている。多くのひどいことがこんなふうに開示され続け、見ている私たちにはそれを止める術もなく、絶望が深まる。
人間は滅びたほうがいい。となかば本気で思っているけれど、そんな言葉をここにぶつけても仕方がない。
核兵器に関する話し合いが終わる前にアメリカは、ここ数ヶ月水面下で準備を進めていたイスラエルと共にイランを攻撃した。イスラム体制の長をはじめ政界の主要人物が数十人亡くなった。
イランはすぐさま報復攻撃をしているが、それは湾岸諸国の米国の拠点を狙ったものらしい。
ホルムズ海峡は事実上閉鎖状態。イラン政府が正式に閉鎖しているわけではないが、危険があるため船の保険会社たちが一斉に手を引いてしまった。保険も無しに危険な海峡をわたるわけにはいかないので、閉鎖されているに等しいということ。
ドイツから友人が遊びに来た。ドイツに住んでいたことがあるよと話したら、ご近所だった。日本に住んでいた私は戦争はずっと昔に終わったと思っていたのに、当時そこはまだ東ドイツの名残があった。
戦争は全然過去のものじゃなかった。何故過去のものだなんて思ったんだろう。
3月5日
蕎麦を食べてから散歩に行く。
考えたら最後に一緒に散歩をする時間が取れたのは去年の秋のことだったかもしれない。町の小さな公園に行くと桜が八分ほど咲いていた。暖かくて明るい。首のところだけが朱色の真っ白なオウムが桜の木の枝にとまってなにやらしきりとおしゃべりしていた。そばにいる飼い主の肩には対象的に真っ黒なオウムがいて、尾羽を広げると熾火のような色がざらりときらめく。なんて素敵な配色なんだろう。
白いオウムは桜の花をくちばしでもぎ取っては地面に捨てていた。やんちゃなようだ。
白樺の木のそばに座り子どもたちが遊ぶのを眺めていた。逆立ちばっかりしている中学生くらいの女の子、電話をしながら芝生の先の尖った部分の感触を手のひらに楽しんでいる女性、目が回るんじゃないかと心配になるくらいに同じ場所を小さな自転車で巡っている男の子、追いかけっこをしている鳩のつがい、弁当を広げる男性。
平和だった。
帰り道には大きなお店で日用品を。いい匂いのボディソープとか食器洗剤とか大きな洗濯石鹸とかロシアのアールグレイティとか大きなポテトチップスとか。化粧品の列でおばあさんが高いところにある2Lくらいのボトルを今にも落っことしそうになりながら取ろうとしていたので取ってあげると、これはこんなに安いのにすごく保つのよと教えてくれる。蓋を開けて匂いを嗅がせてくれたのだが柑橘系の爽やかな香り。これはなんですかと訊くとこれを綿棒につけて耳の後ろと耳の前を拭くのだと言う。半年は保つからお買い得だとしきりと勧めてくる。いらないかなと思ったがすぐに棚に戻すのも悪くてしばらく興味があるふりをしてボトルを眺めていたらおばあさんは戦争の話をしだした。船が爆撃されている。戦争はこうして永遠に終わらない、と。そうですね、ほんとうに。永遠に人間は争うんですねと答える。
会計の時、シャンプーのバーコード読み込みができず店員さんが商品棚まで値段を見に行ってくれた。すぐそこの棚なのに5分ほど待った挙げ句「この商品は棚になかった」と言うので一緒に棚までついて行って5秒で見つけてあげた。
店から出たら信号の向こう側に右肩がだんだん溶けていくみたいに急速に傾いていくおじいさんがいて大丈夫かなと心配になったけれど、なんともないようだった。
帰り道は猫によく出会える小道を通ることにした。入り込むとすぐに猫を発見したのだけれど、こちらを振り向いては逃げ、振り向いては逃げしながら距離を保ち、途中の家の柵にするりと入っていってしまった。
3月8日
朝市への道すがら、米イスラムに対して怒っているインタビューを大音量で流す家やいつもよりも大きめに音楽を流している家があって、こういう共有の方法もあるなと思う。
ウクライナやパレスチナのことも数ヶ月は逐一追いかけていたが今や情報にアクセスする頻度も減っている。状況が変わらないことに、そしてあまりにも非人間的な場面の連続に疲弊して、そこから身を遠ざけようとしているからなのだろうけれど、そうやって結果的に無関心な態度をとることこそ侵略側の思う壺なのだということも知っている。
Twitterはおすすめタグを長くスクロースし続けるほどにどんどん自分の関心とはかけ離れたツイートばかりが流れてくるので、時事だけを追うためのリストを作った。
このところ全然本を読んでいない。しばらくaudibleで速いスピードで詰め込むように読んだので自分の許容量を超えてしまったのかもしれない。何にせよ、それをすることの意味を見失ってはいけない。
山本貴光さんの「読書会のたのしみ」というブログを読んだ。
私もひとりじゃない感じでできる読書のかたちを欲している気がするのだけれど、ちょうどいいそれを見つける労力を惜しんでまだなにも踏み出せていない。自分の能力を棚に上げてうんと理想が高いから、何事も始めきらない。
オーシャン・ヴオン『地上で僕らはつかの間きらめく』を読んだ。
p113あたり
虹彩の色についての描写があるといつもある友人を思い出す。彼女の虹彩は光の当たり方によって色が変わって見える。グレーだったり、赤っぽかったり、薄紫だったり、オリーブだったり、アンバーだったり。彼女の母国は彼女が生まれた頃とは別の名前になった。みんなで何度も、彼女が小さくて可愛いミスをした舞台のビデオを見返したのを思い出す。
久しぶりに紙の本で文字を追ったが、そうするとすぐに、どうして本を読むのが好きなのかがすとんと落ちてくる。こういう風な漂い方をすることが私にとってはとても大事なことみたいだ。
3月9日
何かを始める時に、最初から習おうとすることで起きる弊害について話をした。
こういう話も、大多数の人間をそのひとがどうとらえているかによって話の前提が変わってくるので、それが共有できてからじゃないと話すのが難しい。
レジデンス招聘についてのやりとり。招待者が多い上に個人的に日程の制約もあるのでどうなるかな。もしOKが出れば7年ぶりのアイスランドだ。今回はパフォーマーとしてではなく他者に振付をするような形の制作になりそう。踊ることに慣れていない人にも振付をしたいな。
3月10日
気軽な動画でも見ようか、としたところすぐに始まったCMを種に延々と議論をはじめてしまって気がつけば1時間が経っていた。このところそういう感じのことが少なくない。
対処療法をしようとしている人と根治治療をしようとしている人とでは見えている景色そのものが違うから、どうしても話が通じ合わない。本当にリベラルな意見は今の風潮から見ると弱い立場を切り捨てる暴力性があるように見える。みたいなこと。
話が濃く煮詰まっても、視線を世界に戻すととたんに肩が落ちる。
夕方の西の空を楽しめるのがこの部屋の良いところだ。
どんなにか孤独だろうなと思う。
それを完璧に共有することはできない。別の個体だから。同じものかはわからないけれど、確かに体に染み込んできたもののことを知っている。知りながら、それに任せる。
雲と空との境目、薄い色の雲と濃い色の雲との境目、そこを山の稜線だったり海岸線だと思い込みながら眺める遊びが好きだ。小島が浮かんでいたり、霧が島の端を覆っていたりする。
3月11日
あれから何年、とやはり数えてしまう。そのあとにも(もちろん前にも)大変な災害はあったのに。
さっきまで雨を降らせていた厚い雲の隙間から濃い空の青が見えて、一瞬夏みたいな気がした。今年始めて夏みたいな気持ちになった瞬間。
3月13日
ロジェ・カイヨワのコレクションを見に行く。
Exposition « Rêveries de pierres : Poésie et minéraux de Roger Caillois »
お天気だったら自転車で行こうかなと思ったけれど風も強いし雨模様なので電車で。このところすっかり春気分だったけれど、まだ冬なのだった。
以前自然史博物館でコレクションのうちのいくつかをみたのだけれど、いつかすべてのコレクションを見られる機会があったら絶対に行く!と思っていたのだった。今回見られたのはもちろんすべてではないけれど、十分な量があって、満足。
立体は触れたり、持ったりできたらいいのになといつも思う。絵画は眺めるだけでもいいけれど立体物は温度や手触りや肌の動きを感じたい。
昨日は一日中庭掃除をして、最後寒くてお腹が痛かったのに無理して続けたので悪化して、夜は足湯をしたり湯たんぽにあたったりして体力を回復した。(だってロジェ・カイヨワを絶対に見たかったから)
庭のことはずっと手入れをできないことが気になっていて心を重くしていたことのひとつでもあったから、思い切って手を入れられて嬉しい。
150kgくらい枝を切ったり運んだり砕いたりしたし、湿気のもとになるユリも全部切った。クリスマスローズも古い葉を取って風通しを良くし、高くなっている竹を切り、お隣の敷地に伸びているロウバイを切った。
3月14日
天気雨。
お土産として頂いた石鹸をおろす。ヴェルヴェンヌの香り。
3月15日
自分をブロックしているものごとについて書き出す。何が不満で、何が悲しくて、何を足りないと思っていて、何には満たされていて、社会の中ではこうあらねばならないけれど個としてありたい姿はこうで、感じている歪みは何なのか、それがただの甘えなのか、心から求めることなのか、ほぐしようにもほぐせないものごと、子供っぽくすねているだけなのか、頭が利口に諦めてしまっているけれどそれは必要なことなのか、何を待っているのか、どこかに置いてきてしまったものはほんとうにもう私の中にはないのか、最も得難いと感じているものこそが私を淋しくさせる、人生で出会った宝みたいなことこそが一番胸を抉る、だけどそうして清濁併せ呑むことでしかたどり着けないことも好きだし…
石牟礼道子『魂の秘境から』
体をすみずみから順番にほぐしながら耳で読んだ。少しずつ味わって読みたい。
この本の冒頭で、岡本太郎氏は、優れた文明は滅ぼされる、滅びてこそ輝くものだ、とおっしゃっている。製薬会社の社長さんが、その滅びた文明の遺跡を一目見て、並々ならぬ決心をなさって、現地に行かれ写してこられたという。わたしたちは居ながらにして、このような偉大な文明に触れることができる。何という幸せだろう。珠にもわたしは、この本の刊にされた翌年に「苦海浄土』が上梓され、水俣病問題に溺れ込んでいたので同じ頃に出された特田氏の御本に四十数年後にめぐり会い、感銘ひとしおなのだが、いまはそのことよりも、持田氏のこの本を、早死にした国人しゃまにも見せたかった、としきりに思われて仕方がない。



