4月9日
ヨイヨルさんのブックカバーの紹介動画を見る。
学生時代に父が貸してくれたブックカバーは皮製だった。父の本棚の匂いがした。使い込まれた良い色だったのに、あの時はなんだかその渋さが恥ずかしくて外ではそれを使わなかった。
12:51
そのこととどんな風に関わりたいのか、について顧みる時期にきているのかもしれない。自然に切り替わることを待っていたら年単位で過ぎていってしまう。意識だけでも手綱をとって先導してあげないとこのまま人生が終わってしまう。
4月10日
今日はこのレシピで麻婆豆腐。
いつもたけのこや干し椎茸を入れて具だくさんにするのだけど、これは豆腐と肉と葱だけのシンプルなレシピ。花椒の香りもきちんと立って、今までで一番中華料理屋さんみたいに出来た。
4月11日
『チ。』を最後まで見た。
あまりにもあっけなく終わるのでぽかんとした。
(※以下ネタバレあり)
最終話がスタート地点だということなのかな。つまり、地動説のバトンが一話目の少年ラファウから最終話の主人公アルベルトまで受け継がれてきたと見せかけているが、実は一話目から最終話の前までの話はあるベルトが作りあげた物語である、という。そうすると最終話と一話目が円環になって、地球が太陽の周りを回っている話としてもきれいかもしれない。タイトルにわざわざ「。」がついているし。
けれどそうだとするとちょっとあまりにも説明不足というか、伏線回収してみせようとする意思が感じられない。最終話がはじまりであるならば、最終話の主人公であるアルベルトの人生をもう少しだけでいいから詳しくというか濃く描いて、その中に他の話の主人公たちに繋がる要素を散りばめないと分かりづらすぎる。
なによりバトンを繋いできた主人公たちの人生はなかなか見応えがあったのに、最後の、実在の人物でありながら本作ではその人生を語る時間を割かれなかった人物によって「あの人たちの人生はフィクションでした」と示すのであれば、なかなか作者はドライに観客を突き放したことになる。
とはいえあれほど人物描写にも複雑さと一貫性を両立させながら積み上げる筆力のある作家が最後だけ説明不足に見せているのには意味があるのだろう(急な連載休止でもなければ)。原作を読めばもう少し分かることもあるのかもしれない。
人の生活ログを覗くのはとても楽しい。初期のTwitterが広まったのも初期のTwitterを私が懐かしむのもこれが理由なのかもしれない。
人の記録を面白いと感じる一方で、自分の生活を記録することには興味も辛抱もあまりない(何を食べた、何を見に行った、こんな仕事をした…)。
自分の内側に波紋が広がった時になってはじめて、そういえば私にはそれをしるしておく場所があったぞ、と日記やらSNSやらを開く。旅程は書かないけど旅の中で感じたことについてはスケッチしておきたいといった感じ。
せっかくスケッチしたものの、それをあとから見返すことはほとんどない。
波紋を言葉にしてみているその瞬間こそが大事なのかもしれない。求めているのはその手応え、跳ね返ってくる感触なんだと思う。
4月12日
13:05
暖房器具を使わなくても洗濯物が乾く季節になってきた。夕方が長く、西の部屋に入る光がまぶしい。鳥たちは機嫌よさげに枝を揺らし、冬の間には見かけなかった毛色の猫が日向ぼっこをしている。
2年前の今日は雹が降ったらしい。
19:16
カチューシャ(ご近所の黒猫)が向かいの家の屋根の上でくつろいでいる。かなり急斜面のはずなのに。カチューシャはかなり運動神経が良いが(素早そうな鳥を捕まえて食べているのを見かける)それにしたってあんなところでのんびりできるものか。
『戦争の法』を少しずつ読んでいる。
人質にとられた主人公を伍長が見捨てないでよかった。ふと、N国が独立することになった理由やそろそろ戦争が収束しようとしている経緯を把握していないことに気づく。人物の魅力でここまで読んできてしまったけれどそういうそもそもの部分を自分が必要としていなかったことが面白い。今読んでいるのは戦争が終わってゲリラが解散することになったあたり。
19:20
夕方、と言っても19時過ぎだが、小雨が降りはじめ風も出てきた。久しぶりの雨。このあとも引き続き雨の予報なので夕焼けは見られないかもしれない。ちょっと一服してからやることの続きを。
19:54
DISTANCE.mediaのニュースレターでドミニク・チェン氏がXのアカウントを削除したことについて書かれているのを読んだ。
(ご自身のblueskyアカウントに全文が載っている↓)
私自身もここに書かれているのと同じようなジレンマを感じつつ、現状、以前よりもだいぶ書かなくなったとはいえずるずる居続けている。様子を見るというその行為そのものがなにかに加担しているような気持ちになることもある。世の中腐ってる!と思ったとて世界から去ることはできないが、Xからは去ることができるのだった。もう古巣とも呼べないしね。悩ましい。
4月13日
町と郊外の境を走るトラム沿いを自転車で下り、移民美術館を横目にヴァンセンヌの森に入る。緑と人と青空をかき分けながら小道を抜けると市民マラソンの流れに突き当たる。ランナーたちの隙を見て横切らせてもらう。大きな線路と高速道路を越えて川沿いの自転車道をずっと行く。5キロくらい。がたがた道だしタイヤに空気をぱんぱんに入れてきたから跳ねる。途中自転車道が消えて車道に合流する。道が細いし対向車線との間の線は線じゃなくてブロックになっているからこれでは後ろから来た車を待たせることになる。車は数台しかこなかったし、スピードが出せる平坦な道だったのでそういうことにはならずよかった。いつまで南下すればいいのかと心配になった頃、川を渡る橋を見つけて町に入る。私が住んでいるところも同じだけどアフリカや中東系の人が多く住む地区。こういう町によく見る光景だけど道端に人が多い。自転車置場を探すが、どの置場にも自転車がない。心地よさそうな公園があった。ちょうどそこが行先地だった。
片道16km、行きは迷いながらで1時間半、帰りは上り坂だったのにもかかわらず猛然とこいだので1時間15分だった。疲れて夜は何もできなかった。(何故猛然とこいだ)
4月14日
バルガス=リョサの訃報。
『密林の語り部』を読んだ時、ちょうどハイチ出身の語り部を生業とする人と友だちになったばかりだったのを覚えている。(このときの読書はパトリック・シャモワゾーまで繋がっている)
そういえばちょうど昨日彼に会って、この本を読んだ時に君のことを思い出したよという話をしたのだった。
うちあわせCastの171回目を聴く。
面白かったのは、再生AIが作った文章はその人が手を加えた時点でその人のものになるのかどうか、という話。
舞台を作り上げる時に最も気も時間も使うのは微細な部分の微調整であることを思い出していた。照明で肌の輪郭だけを見えるようにするのか、もう少し内側までか、影の濃さは、暗転のタイミングは0.1秒遅いのか早いのか、この立ち位置で空間が立体に見えるか、時間の幅を表現できているのか、そこに見たかったビジョンとの齟齬がないか、…それこそ肌で感じるか感じないかのわずかな違いをすり合わせることに一番時間がかかる。自分でも何を「違う」と思い何を「これで良い」と感じているのか、言葉では言い表せないけれどでもここがジャスト、これ以外では在りえないというところまで調整しておく。舞台はなまものなので、その振れ幅も知ったうえでそこに仕掛けを打っておく。
これは文章で言えば推敲ということだろうし、この作業こそが大変苦しいけど一番実のあるところ、Tak.さんのおっしゃるように「おいしい部分」だという気がする。
この作業を詰めることで作家が何を見、何にこだわり、何を発見したいのか、人生で積んできた癖や世界への視線が浮かび上がってくる。
この作業がなされず、アイデアだけが主体のまま本番としている舞台を見ると、どうしたら良いものになったんだろうとあとあとまで考えてしまう。作家はこの作品をさらに煮詰めたいと思っていたのか、時間がなかったのか、それともそんなことを考えもしなかったのか。
体、みたいなものが関わっているから自ずとそれだけで自分の固有な何かがすでに備わっていると思うのは、身体表現をしている者が陥りやすい甘えだと思う。
生成AIが作ったある文章にAさんが手を入れればAさんの文章になるだろうし、Bさんが手を入れればBさんのものになるというのは本当にそうだなと思う(その手の入れ加減にももちろん依るけれど)、個人的にはアイデア自体を重要なものとは思わない。素晴らしいアイデアも手の入れ方で鈍るし、使い古されたアイデアであってもその人の視線が入ることで固有の世界を生み得る。アイデアだけが浮き上がっているように見えるのはむしろ悪手だ。
4月15日
夢。
病院の受付で症状を話していつ診てもらえるか尋ねたら、受付の人は適当に受け流しながらそもそも医者に診てもらう必要があるの?と言う。とにかくお医者さんに診てもらいたいと言ってものらりくらり予約を通してくれない。このまま帰ったら悩みが解決しないんですということを怒りを込めて伝える。周りの人も加勢してくれる。受付の人は急に態度を改めて謝ってくれる。
お互いおさまりがつかなくなったので一旦そこを離れて、もう一度初めての人みたいに「すみません、予約したいんですけど」と言ってみたら「明日の10時にお越しください」とすぐにコントを受け入れてくれた。
夢の中でひどく暴力的な怒り方をしてしまうことがある。自分が隠し持つ炎がいささか大きいのは近年自覚するようになったけれど、それにしても。
夢には私の恐れがあらわれることが多い。きっと私は自分の中の炎を過大評価し、自制する力を過小評価してるんだろう。
『地上で僕らはつかの間きらめく』続き。
同性への恋がはじまる描写を読むと、いつこれが酷く壊されてしまうんじゃないかと恐れる気持ちがいまだにあって、それは異性間の恋愛の描写を読んだ時にはないものだという自覚がある。実生活での経験というよりはそういう描写をたくさん読んできたからだと思う。
時系列がかなりあちこちに飛んでいて、読む人によっては物語を追えなくなるのかもしれない。私自身は、時間をまたぎながら感覚を織ってゆく作業が好きだ。
4月16日
12:52
青梗菜と揚げ豆腐の煮浸し、大根とひき肉のそぼろ煮。手も時間もかからない和食はたくさんある。どちらも3分くらいで食材は用意できてあとは火を入れるだけ。
15:17
Spotifyが珍しくエラーを起こしている。作業しながら聞くことができなくて、耳がしずか。
17:33
庭の一重の牡丹が咲いている。すぐに終わってしまうので摘むことはしない。この4年で私の背を越えてしまった。今年終わったら枝を数本切り詰めてみよう。
25:19
数年前から本がすらすら読めなくなっている気がしてしおりを工夫したり、読み上げ機能を併用したり、ストレッチしながら/歩きながら読んだり、mocriやDiscordやmixi2でイベントを立てて人を巻き込んで読んだり、数冊並行に読んでみたり、と色々試みているうちに少しずつこのくらい読めるならいいや、というところまでやってきたと思う。「これくらいでいいや」と感じているということが大事で、他人や過去の自分や自分の理想と比べることもなく、このような付き合いかたが今はいい、と思えるのが良い。